家入レオさんのsillyという歌の歌詞が、なんとも切なくて、読みいってしまいました。
現実の虚無感とその現実から離れたいという欲求、離れる術としての愛、だけどその愛さえも本物なのかどうか、つまり自分を満たすものなのかどうかわからない。
食べる、飲む、寝る、しゃべる、セックスする。その繰り返しに何の価値があるのかと、誰しもふと疑問に思うことがあります。何のために、この心臓は鼓動しているのか、なんのために、感覚があって、意識があるのだろうか。
人はその無意味な現実の繰り返しから目をそらすために、規律であり愛であり、芸能ネタであり、日本人なら「道」(華道茶道剣道・・・)というような、いわば文化を創っていると考えることもできます。無意味な現実、無価値な現実、いわばsillyな現実に、価値を与えてきたのが人であり、価値を生み出すことができるのも人です。
何のために、私達は生きているのでしょうか?
それは価値を生み出すためです。
喜び、悲しみ、怒り、好き、嫌い、恥ずかしさ、安心、傷心、心配、それらは感覚や感情が生み出す価値であると思っています。
相手に喜ばれるというのも価値ですが、それ以前にご自身の喜びや安心などの「前向きな価値」を生み出していく努力を通じて、心を満たしていくことが先だと思っています。
しかし、その前向きなご自身の価値が、相手の不愉快さを伴うものであれば、それは良くない。個々の価値創造においては、対人関係や社会が存在していて、ご自身の価値を相手の価値とバランスしていくのが重要で、そこには、遠慮や配慮や思いやりがつきものです。遠慮や配慮や思いやりそのものが価値となっている日本社会は、ある意味素敵だと思っていますが、それが苦痛となる人もいることは確か。なので祭りというガス抜きがあるのかもしれませんが・・と話がずれました。
私達は、価値創造の手段として、非日常を充実させるという手法を提案しています。さらに掘り下げると、SM行為という、アブノーマル性もしくは本来誰しもがもっている変態性をさらけ出すことで、人生の解といえば大げさですが、信頼関係や愛をベースとして楽しみや喜びや快楽を追求し、個人の人生を全うしていってはどうかという提案です。
そもそも自分を満たせるものはあるのだろうか?
たまにあります。だけど、欲求がある限り、追い求めるのが人の宿命だと思っています。