同僚とは話せないこのSMの嗜好。
建前社会においては、明らかにSMというアブノーマルな行為を嗜好することは、社会から「私」を完全に疎外させるものであって、一般化された建前に対してSMは決して「一般」というカテゴリーに昇華されない。
SMは、心の奥に潜む、人間の本質を何らかのアブノーマルな行動で表現することである。世の中の大半の人は、心の奥をのぞこうともしないし、建前という偽善的表面上においてしか、コミュニケーションをとろうとしない。
それ故に心の奥をのぞき人間の本質にたどり着こうとする人を、精神的な病であるとか様々な表現によって建前社会から隔離していく。
一方で、あらゆる人生論の中での共通項である、「素直に生きる」とか「自然体で生きる」とはどういうものか。これらの建前的な表現の中に、本質にたどり着くヒントが隠されていたりもする。
建前社会の人生論なのに、建前とは真逆の本質を知ろうとさせる。世に上程され消費され消えていく人生論が多いのは、その矛盾を内在しているからで、なんら本質的な解決策ではないからだ。
心の奥を覗き込こませ、人の本質にたどり着こうとすればするほど、建前と本質のギャップの中で、人の心は混乱してさらに理想とされる人生から遠ざかる。そして、自死に至る場合もある。
私から言わせれば、建前社会に存在するこれらの人生論は、それを全うする者を社会から疎外させ、人を心理的に拒否することでしか生きていけないという、これもまた人の本質かもしれないが、村八分的なスケープゴートを生成することを目的としたサブリミナルな戯言のように思う。
なぜなら、出ては消え、消えては出てくるそれらの人生論を読んで本質に触れ、心が混乱する人たちの受け皿を用意していないからだ。
「素直に生きる」とするならば、素直に生きようとする人たちの受け皿が必要だ。その受け皿的な役割が、当会の一つの役割かもしれない。