自分に素直に生きようというきっかけがあった。約3年以上前の話しだ。

世の中の醜さを実感するきっかけがあって、だったら思いっきり自分のやりたいことをやろうという決意をする。きっかけが、3年前で、決意が約8ヶ月前になる。

その決意によって、この会の活動が本格化し、人生がよりエキサイティングになり、毎日が楽しくなっていくのであるが、その副次的なメリットとして、女性会員と男性会員との人脈形成ができつつあるのが、本当に面白い。

今回の記事は、そういうメリットの話しではなく、どんな意識が会を拡大することの意欲になっているのかがテーマ。

政治の世界を見ると面白い。ある事象をマスコミは恣意的に報道し、それをまた恣意的に解釈していく世論の姿を見て、滑稽に感じる時が多々あって、もはや関わりたくないとの思いが強くなる。ターゲットとなった人間は、徹底してたたかれ、その本質的な問題を解決するというよりも、対象者のあらゆるネガティブな情報をねつ造してでも報道して、馬鹿にして、卑下して、その対象者がやってきた世の中への貢献さえも「悪」になって、スケープゴート化されていく。

知識不足、論理思考の欠如、感情論、利益誘導、抹消に拘り本質を見抜けない。意外と自分の人生においても、同様のレベルでの解釈がまかり通り、本質論からずれて、時間を無駄に過ごす人も多い。何のために生きているのかとか、何をしたいのかとか、もちろん選択肢の多さの問題も並行してあって、何をしてよいのかさえ判らない人も多い。

プライド思考な口調な会話で管を巻き、誰かを卑下し、優越感に浸る。自分もやってきた事だし、否定はしないが、ある一定の人生のラインを超えると、その口調が耳に入るだけで、どこかその他人を馬鹿にしている自分がいる。それは優越感に浸っていることかもしれないけど、ネタにしていないだけマシかなとも思う。

いわば比較論なわけだけど、世の中における自分のポジションは、比較の中にその位置とか意義とか、わかったりもするもので、それが安心感につながり、幸福に繋がるわけで、従っていかに間抜けな理論での他者比較と比較による優越感でも、それがその人の幸福追求の手段だから、永遠にその品性のなさは存在することになる。上品の中の下品とか、慇懃無礼とかそんな感じだ。

その醜さは、消える事もなく、その「醜さ」自体が自分にとって比較の対象になるわけで、「人生における必要悪」として、常に存在することになる。生きている限り、その醜さを見聞しつづけることになるのは間違いなく、それを考えるだけで憂鬱な気持ちになる。

「憂鬱な気持ち」とは、私にとっては無駄そのもの。「必要悪」が「無駄」という論理は矛盾するかもしれないが、あとは、レベル感の問題で、ある一定のレベル以下は、完全に私の周辺から排除していく努力をする。つまり、自信の幸せを徹底して追求していくという姿勢がここで生まれてくることになる。

そして、「無駄の排除と幸福追求」が私の人生のコンセプトになった。そして、「無駄」の拡大解釈が始まって、「時間軸」という軸も追加されて、「やらない事」が増えてくるのである。「やらないという判断」をしていくことで、選択肢を排除し、複数の「方向性」に集中投資していくという人生戦術が生まれてくる。

私たちは、事業家の集まりである。複数の会社の役員に入っていたり、複数社を経営していたりする。よって、様々な案件が出てくる。数億円規模の投資で、ある事業の多角化をやりたいとか、ある商品を作ったから、会社を作ってほしいとか、あるファンドの組成をやるとか、様々。リソースを考えて、投資の効率性を考えて、人生観に問いただし、「やらない」と判断するのである。不作為の作為みたいなものだ。

集中投資する複数の「方向性」に、このトビラの会が入っている。私の人生の、一部を捧げていこうと思っている。そう決意した。